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関ヶ原の合戦 徳川家康(東軍) 最後陣跡   

いよいよラストの陣跡。
とは言っても、家康について今更書くことなんてあんまりないんで、短めにあっさりいきます。
2015/02/01 徳川家康 最後陣跡

徳川家康の最終の陣跡は、石田三成の陣跡より南東へ900m程離れた陣場野公園内にあります。関ヶ原歴史民族資料館や田中吉政の陣跡のすぐ近く。

2015/02/01 徳川家康 最後陣跡開戦前に壬申の乱の縁起を担いで桃配山(ももくばりやま)に陣取った家康だったけど、合戦前線より距離があって戦の状況がよく分かりません。短気の家康は開戦2時間後の午前10時に桃配山から前線に近いこの場所に移動しました。(間に別の場所に陣を敷いた説もあり)。

西軍でまともに戦っているのは、石田、宇喜多、小西、大谷ぐらいで、数的には圧倒的有利だったんだけど、西軍の善戦で一進一退。しかも、内通のあった小早川がなかなか動かないと、午前中は結構いらいらしていたらしい。
でも、午後からは小早川ら松尾山隊が寝返って西軍を圧倒。天下分け目の大戦に大勝利しました。

2015/02/01 徳川家康 最後陣跡2015/02/01 徳川家康 最後陣跡合戦終了後は、各武将の論功行賞の為の首実検(敵の首の確認)をこの場で行いました。

2015/02/01 徳川家康 最後陣跡現在の陣跡は、説明看板によると、1841年に幕府の命令で、関ヶ原の領主の竹中家が整備したものなんだそうです。陣跡中央の石垣に記録が記してあります。

2015/02/01 徳川家康 最後陣跡国指定の史跡なんで、大きな碑もある。

そして関ヶ原合戦のその後は・・・・
先ず石田三成の居城だった佐和山城や前日まで西軍の本拠地だった大垣城を攻撃し落城。そして大津城に向かい滞在中に逃亡していた敵将が次々に捕まり護送さてきて謁見。そして信州上田で真田昌幸に翻弄されて合戦に参戦できなかった嫡男徳川秀忠が到着し合流。それから、西軍総大将の毛利輝元を大阪城から失脚させて家康が大阪城入りをしました。

こうなると家康に反抗する者はおらず、豊臣家や西軍の大名の所領の多くを合戦で武功を上げた大名に分け与えました。これで豊臣家は200万石以上あった石高が65万石まで削られ、反対に家康は250万石から400万石に加増。そして、3年後に家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。

関ヶ原合戦史跡地図

昨年8月より始まった関ヶ原の合戦の陣跡レポも、現時点で整備されている陣跡は全て紹介したんで、今回でいったん終了。もちろん、今後に細川忠興のように新しく陣跡が整備されるかもしれないし、関ヶ原の合戦の史跡は陣跡だけじゃないんで、今後も時間をおいてからボチボチ紹介していく予定。


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タグ:関ヶ原の合戦 徳川家康
  1.   2015/04/22(水) 20:05:40|
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関ヶ原の合戦 石田三成(西軍) 陣跡    

2015/03/29 石田三成陣跡

西軍最後は、もちろん西軍を挙兵し関ヶ原合戦の現場指揮者でもあった石田三成(いしだみつなりの)の陣跡。

2015/03/29 石田三成陣跡三成のことと関ヶ原の合戦の発端について書くとなると、とても長い文章になるので掻い摘んで説明すると、三成は豊臣秀吉に10代半ばで取り入られ、主に文治派として政治と財政を担当し豊臣政権を盛り立てました。秀吉に大変気に入られ五奉行の一人となり秀吉の側近として地位を築いていきました。ただ、戦の前線で体を張って戦っていた武断派の多くの武将と後方支援の三成ら文治派とはそりが合わず、文治派と武断派の対立は深刻なものとなっていきます。

合戦までの経緯は、秀吉の死後、天下取りに向けてやりたい放題だった徳川家康(五大老)が会津の上杉景勝(五大老)に対して上洛の命を出すもコレを拒否。コレに腹を立てた家康が景勝を征伐する為に武断派の武将を連れて北関東へ進軍(会津征伐)。家康に脅威を持っていた三成は、その隙に大坂で毛利輝元(五大老)を総大将として挙兵し、それに賛同した武将(主に文治派)たちが集まり西軍が結成されました。上杉家(主に直江兼続)と通じていた三成ら西軍は家康軍を挟み撃ちにするため東に進軍しました。

2015/03/29 石田三成陣跡一方、三成挙兵を下野小山(栃木県)で知った家康は、会津征伐に参加した武将を集め評定を開き、三成が挙兵したことを知らせ、西に引き返し西軍と戦うことを表明。文治派中心の西軍だったので、武断派中心の家康軍の武将の多くは家康に賛同し、東軍が結成されました(小山評定)。家康の次男の結城秀康と伊達政宗ら東北の武将を景勝対策として残して西へ引き返しました。

両軍が進軍する間、前哨戦等いろいろありましたが、慶長5年9月15日(1600年10月21日)に関ヶ原で対峙し天下分け目の合戦が始まったわけです。

2015/03/29 石田三成陣跡合戦当日、三成は西軍の一番北の笹尾山に陣を構え、6千人の兵で黒田・細川・田中・加藤軍と激しい戦いを繰り広げました。特に、大阪城から持ち出した大砲五門の効果は絶大で、人数的に不利だった西軍は互角以上の戦いをしました。
ただ、兵の士気の低さと疲弊が顕著化。更に島左近らの優秀な家臣が討ち死に。午後には小早川秀秋ら松尾山隊の寝返りで西軍は大崩れして大敗。三成は笹尾山の北にある伊吹山山系方面に逃走しました。

2015/03/08 六条河原合戦六日後、伊吹山に逃げた三成は伊吹山麓の洞穴に潜伏しているところを、田中吉政の家臣により捕まり、慶長5年10月1日(1600年11月6日)に京都の六条河原にて、小西行長、安国寺恵瓊らと共に斬首されました。

辞世の句は・・・
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

← 現在の六条河原付近


2015/03/29 石田三成陣跡2015/03/29 石田三成陣跡笹尾山は現在、国指定の史跡として保護されていて、麓には馬防柵が復元されて当時を雰囲気をかもし出しています。陣跡がある頂上は関ヶ原を一望できるる展望台と、合戦を音声で説明する装置が設置されています。訪れた日は雨で夕方だったので、訪れる人はあまりいませんでしたが、晴れた休日には多くの人が訪れます。

2015/03/29 石田三成陣跡ついでといってはアレだけど、明治43年に皇太子がこの陣跡を訪れたときの記念碑があります。明治の皇太子だから後の大正天皇の事かな。


天下を豊臣から奪う為、大老職の法度を破り、好き放題な振る舞いをし続けた家康に危機感を感じ、挙兵したことは豊臣恩顧の大名の鑑といえるよね。ただ、武断派にかなり嫌われていたのが致命傷。結局、関ヶ原の合戦は豊臣恩顧の大名同士の戦いみたいになってしまいました。

ドラマ等で何かと悪者役になってしまう石田三成だけど、豊臣を守る為に体を張ったところには好感が持てる。おいらには好きな武将の一人です。是非とも、石田三成が主役のドラマを作ってもらいたい、頼むよNHKさん。

関ヶ原合戦史跡地図


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タグ:関ヶ原の合戦 石田三成
  1.   2015/04/08(水) 23:44:49|
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  3. | コメント:0

関ヶ原の合戦 島左近・蒲生郷舎(西軍) 陣跡    

おろっ?昨年秋に撮影した笹尾山の写真が無いぞな?まさかPCに取り込む前に消した?マヂかぁ~・・・・・ orz
で、急遽再び撮ってきた。
2015/03/29 笹尾山

さて、いよいよ石田三成が陣取った笹尾山。
今回は、その笹尾山の麓で東西に分かれて笹尾山の脇を固めた二人の家臣の陣跡を紹介。



2015/03/29 島左近陣跡笹尾山の東側を固めた、島左近(しま さこん)の陣跡。
三成の家臣になる前は、豊臣秀吉の弟の秀長に仕え、秀長死去の後はその養子の秀保に仕えた。その頃に三成より家臣へのオファーがあり、2万石という俸禄(給料の事ね)で三成の家臣に向かいいれられた。当時の三成の禄高が4万石なので家禄の半分という破格の待遇である。
しかし、この左近、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われるほどの逸材で、関ヶ原の合戦の前日の「杭瀬川の戦い」で明石掃部(かもん)と組んで東軍に完勝している。

2015/03/29 蒲生郷舎陣跡関ヶ原の合戦当日は、笹尾山の東側に陣取り、黒田・細川・田中隊と激しい戦闘を繰り広げたんだけど、銃弾を受けて討ち死にしました。ただ、生き残り説もあって各地に墓とか異説がある。



2015/03/29 島左近陣跡笹尾山の西側を固めた蒲生郷舎(がもう さといえ)の陣跡。

2015/03/29 蒲生郷舎陣跡ごめんなさい、この人の事はよく分かりません。当時、三成に仕えた家臣で蒲生姓は二人いました。この郷舎と頼郷。
説明看板に書いてあることは、郷舎の事でなく、頼郷の事が書いてある。この二人は混同されがちでややこしい。
ただ、郷舎は合戦後も生き残り、その後も長く生きていたとの事です。


関ヶ原合戦史跡地図


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タグ:関ヶ原の合戦 島左近 蒲生郷舎
  1.   2015/03/29(日) 23:57:00|
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