2013/06/09
※写真と本文は関係ありません。
えー、暇をもてあましてたんで、またまた別のブログテンプレートをシコシコとカスタマイズ。
せっかくなんで、そちらを本日よりリリース。
例によって、IE、Chrome、FireFoxで動作確認済み。
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東海道本線 EF64-1000
- 2015/01/31(土) 20:47:34|
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2014/09/20
関ケ原中心部からほぼ真西にある天満山の麓の天満神社が
宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の陣跡。
秀家は父親(直家)が10歳の時に他界した為、幼少ではあったけれど家督を継ぎました。それから、豊臣秀吉の養女(前田利家の娘)を正室迎えたり、九州征伐や小田原城攻めでも活躍したりで、朝鮮出兵(文禄の役・1592年)の時には20歳で総大将として16万の兵の指揮を執るまでになり、朝鮮出兵後に秀吉より豊臣政権下の五大老のひとりに任命されました。
秀吉死後は、やりたい放題の家康の振る舞いが面白くなく、石田三成を中心とした西軍に属し、副大将として参戦しました。ちなみに、関ヶ原の合戦時は28歳で備中岡山56万4000石の領主、当時では石高7位の大大名でした。
※写真の碑の名前が「浮田」になってますが、これは合戦後に八丈島に流刑になりその時に「宇喜多」から「浮田」に改名している為で、間違いではないです。
さて、合戦当日、秀家はこの天満神社近辺に17000人と西軍では一番多い兵の数で陣取り、戦に臨みました。看板にも書いてあるけど、その兵の中に宮本武蔵がいたことは有名な話。
戦中は福島正則隊や後から後から加勢してくる東軍の兵と激しい戦闘を繰り広げましたが、小早川秀秋ら松尾山の軍が攻めてきた頃には宇喜多軍は疲労困憊で、あっという間に支離滅裂となりました。それ以降、西軍は総崩れになり、秀家も伊吹山方面に敗走することになりました。
伊吹山方面に逃げた秀家は、そこから島津家を頼って薩摩(鹿児島)へ逃走。一時は秀家を匿った島津家だけれど、後に家康に秀家の身柄を引き渡たしました。敗軍の将ともなれば死罪は免れないところだけれど、島津家と正室の実家の前田家の懇願があり死罪は免れ、一旦幽閉されてから1606年に八丈島への流刑になりました。その時に姓を「宇喜多」から「浮田」に改名してます。
八丈島での生活は前田家からの差し入れは有ったそうですが、やはり住みにくかったようで、いろいろな逸話が残っています。そして、八丈島にて83歳で天寿を全う。若くして関ヶ原の合戦に臨んだので、他界したのは1655年。当時としてはかなりの長寿で、関ヶ原の合戦に参加した大名の中では一番最後に没しており、徳川幕府は既に四代将軍の徳川家綱の時代でした。
天満神社には、他の陣跡で見られる柱状の碑の他に、大きくて立派な碑もあります。こちらは「宇喜多」となっているうえに、「秀家公」と尊称を奉ってます。
こちらもチェックをお忘れなく。
ところで、秀家の母親が父親の直家が他界したのち、豊臣秀吉の側室になったことから、秀吉は秀家の義理の父親ってことになるのかな?
関ヶ原合戦史跡地図
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関ヶ原の合戦 宇喜多秀家
- 2015/01/28(水) 20:22:46|
- 歴史 史跡 関ヶ原の合戦
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