
2014/09/20
賤ヶ岳の七本槍の一人で武断派中の武断派の
福島正則(ふくしま まさのり)の陣跡。
関ヶ原中心部から西南の住宅地にある春日神社にそれがある。

母親が大政所の姉妹という縁で、幼いころから秀吉や北政所(おねorねね)に育てられた豊臣子飼いの武将。たから豊臣家への忠誠心は半端なく、正に豊臣LOVEなのである。
関ヶ原の合戦に東軍に就いたのは、石田三成が豊臣秀頼がまだ8歳という事をいいことに豊臣政権で権力を我が物顔で振るっているのが面白くないこと。そして、家康の養女と正則の養子が婚姻関係であるというのも理由かな。
でも、まぁ、単純にいえば、三成が超スンゲー嫌いというのが一番の理由だろうね。
結構遺恨があったようで・・・・

当初は、戦の口火を切る先鋒の役目をするはずだったんだけど、松平忠吉・伊井直政に抜け駆けされて面目丸つぶれ。怒った正則は正面の宇喜多秀家隊17000人と大激闘を繰り広げたとの事。6000人vs17000人なんで、分が悪い戦いだったけど正則は自らが叱咤激励し何とか持ちこたえ、その内に援軍も駆けつけ、西軍最大の宇喜多勢を壊滅させることができました。


正則の陣跡と同じ場所にある「月見宮大杉」。
樹齢800年余りということで、関ヶ原合戦屏風にも描かれているとか。正則がこの地に陣を開いたとき、この杉が陣とともにあり、正則もこの杉(当時は樹齢400年)を見ていたんだと考えると、ちょっとロマンを感じますな。
合戦後は、安芸広島と備後鞆の49万8,200石の領主となり、うはうは状態。
だったんだけど・・・・・・・
結局、大好きな豊臣家は大坂の陣(1615)で滅亡。当時、家康は豊臣方に就く可能性がある正則を江戸で留守居役というか半謹慎状態にして出撃させなかったとの事。
しかも、広島城が台風で破損し、それを無断で修理したことが「幕府に許可なしで城の改築や修理をしてはいけない」という武家諸法度に違反するということで改易(取り潰しみたいなもの)された。まぁ、これは豊臣恩顧の大名を一掃したかった徳川秀忠の策略らしい。加藤清正の加藤家も濡れ衣を着せられ改易されたしね。
広島を出た後は、信州の高井野という所に移り住み、そこで死去したとの事。
若いときは、バリバリの超体育会系で戦で武功をあげまくったのに、晩年は残念だった正則。
東軍側では珍しく転落人生になってしまった正則にちょっと哀愁を感じてしまう。
関ヶ原合戦史跡地図

ブログランキングに参加しています。
今日もご覧いただきありがとうございました。
テーマ:
歴史 - ジャンル:
学問・文化・芸術タグ:
関ヶ原の合戦 福島正則
- 2014/11/09(日) 19:20:16|
- 歴史 史跡 関ヶ原の合戦
-
-
| コメント:0